この辺りは多武峯の奥ノ院と呼ばれた紫蓋寺(しがいじ)という寺院があったところです。明治維新までは念仏常行堂、地蔵堂、鐘楼や僧坊が立ち並んでいたといいます。今はすべて廃墟となり石垣や石段と中・近世の石塔群を残すだけです。僧賀(そうが)上人の円形の貼石塚は石段を150段登った一番奥まった場所にあります。石で造った2段積みの墓で、直径が4mもある大きさで先端には元々「南・無・増・賀・上人」と刻んだ五輪塔があったことが「西国三十三か所名所図会」からわかっています。
増賀上人は平安中期の貴族階級出身の天台宗の高僧で比叡山で修行後、名聞を嫌い、応和三年(963)弟子の如覚の勧めで多武峯に入山、以後40年間入滅まで隠棲、開山の定恵にたいして、中興の祖と言われる人です。この辺りを念誦崛と呼ぶのは、上人が念仏三昧のうち入滅した山地であるのにちなんであてられた漢字であるともいいます。
また一説に、この周辺一帯が斉明天皇の両槻宮の宮があった所ではないかということですが推測の域を出ません