纒向遺跡という名前は昭和46~47年にかけて行われた発掘調査で旧纒向村の多くの大字に跨って遺構の存在が確認された為、命名されたものです。それまでは昭和12年の大字太田で土器が出土した際につけられた太田遺跡と呼ばれていました。
(今にすれば纒向遺跡のごく一部が先行して発見されていたということになります)纒向という名前そのものは明治22年に旧纒向村が誕生した際、このあたりに宮があったとされる垂仁天皇の「纒向珠城宮」、景行天皇の「纒向日代宮」にちなんで名づけられたものです。
纒向遺跡は纒向川の扇状地に広がる東西約2キロメートル、南北約1.5キロメートルの広大な遺跡で、現在まで150次以上に及ぶ調査が継続的に行われていますが、発掘済みの調査区は全休の5%に過ぎず、まだ全体を解明するにいたっていませんが、3世紀の国内最大級の集落跡で邪馬台国畿内説の最有力地とされています。
纒向遺跡は、3世紀初めに突如として大集落が形成され、集落内には纒向型前方後円墳と呼ばれる共通の企画性を持つ、発生期の古墳群が存在しています。また農業を営まない集落である事、東海系など他地域から運び込まれた土器が多い事、極めて特殊な掘立柱建物が存在し、高床式住居や平地式住居で居住域が構成された可能性がある事などから、日本最初の「都市」の機能を持つ初期ヤマト政権の中心地であった可能性が考えられています。
2010年に卑弥呼の宮殿跡との説もある大型建物跡(3世紀前半頃)のそばで見つかった祭祀に使ったとされる桃の種を、名古屋大学の中村名誉教授と元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲 氏が、放射性炭素を使った年代測定の結果、いずれも西暦135年から230年の間のものである可能性が高いことが判りました。
この結果は卑弥呼の時代と一部、重なり桃は神聖な果物で卑弥呼が行った祭祀に使われたものではないかという指摘もあり邪馬台国の所在地論争の畿内説を補強する上で重要な資料となる可能性が出てきました。(2018年5月新聞発表)
遺構は2013年(平成25年)10月17日に「纒向遺跡」として国の史跡に指定されています。.