生根神社から街道筋を南に歩を進めると、すぐに玉津島明神の小祠が見えてきます。この地は忍阪字生谷(いくだに)で地名のとおり衣通姫の誕生地という伝承が残っています。祠の横には衣通姫が産湯を使ったという、産湯の井戸の石枠組が残されています。
元々の井戸は、すぐ横を静かに流れる、生谷川の清流沿いにあったという伝承があり、2011年9月に周辺の一部を試掘したところ、地下2mのところから、井戸の石組みと思われる石材が見つかりました。しかし部分的な発掘に加え、時代を証明できるような土器類等は発見されず、当時のものか断定は出来ませんでした。しかし、いつの日か幻の忍阪宮跡と共に、この産湯の井戸が発見されるかもしれません。
衣通姫は古事記では允恭天皇(19代)と皇后で当地ゆかりの忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の第五皇女で、同母を持つ木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と情を通じたことで、兄は失脚して伊予に流され、衣通姫も兄の後を追い共に命を絶ってしまうという、悲しい物語が残されています。
万葉集には衣通王(そとおりのおおきみ)とあり、兄が伊予に流された時、恋慕に堪へずして、追い往く時に歌った衣通王の歌が一首残されています。
君が行き 日長くなりぬ やまたづの
迎へに 行かむ 待つには待たじ (巻2・90)