鏡王女墓には以前19本の松がそびえ、それは素晴らしい景観だったようです。(大和路の写真家入江泰吉氏の写真は特に有名です。)しかしながら、この松も虫害で今は無く、代わりに杉が植林されていますが、年月を重ね今はいい感じに古墳と同化しています。
鏡王女は、はじめ天智天皇の妃で、後に藤原鎌足の正室となった関係で、談山神社とのつながりが強く、かって談山会(消滅)の建てた看板がありますが、今は民有地で忍阪区の老人会が中心となって維持管理されています。古墳としての詳細は不明ですが奈良県教育委員会発行の「奈良県遺跡地図」には鏡皇女陵(1)5A-76)円墳、径15mとだけ記されています。平安時代前期に編纂された「延喜諸陵式」に舒明天皇の領域内にあると記録されていますが舒明天皇との関係は明確ではありません。
埋葬施設は未調査で築造年代を特定する材料はありませんが、立地場所は外鎌山(忍坂山)の南斜面の小さな支尾根に造られており、風水思想に基づいた終末期の古墳の特徴を備えています。周囲の景観も万葉の時代ってこんな感じだったのかな?と思わせてくれる静かな佇まいで一人でそっと訪れてみたいところです。