2013年5月に中ツ道の構が奈良県天理市で見つかつたと調査した橿原考古学研究所が、発表しています。砂混じりの土を敷き、つき固めて舗装してあり中ツ道の路面の遺構が見つかるのは初めてとのこと。 中ツ道は7世紀ごろ造られたとされ、推定で幅約23メートル。藤原京跡(同県橿原市)などでも側溝跡が見つかっています。側溝跡から出土した土器の年代などから、同研究所は「12世紀ごろ(平安後期)までは道路として使われていた」とみています。
中ツ道は上ツ道、下ツ道と並んで奈良盆地を平城京から藤原京付近まで南北に縦貫する古代の官道で、現在の地名でいえば奈良市(平城京)から南下して大和郡山市の井戸野・鉾立、天理市の喜殿・前栽・井戸堂・横広・備前・武蔵・為川を経て初瀬川を渡り、壬申の乱で知られる田原本町の村屋神社に向かいます。このあたりからは畦道または農道で、ほとんど消滅(埋没)しています。再びその痕跡を確認できるのは桜井市西ノ宮付近で三輪神社の隅にある面堂あたりで、見ることができます。中ツ道は、このあと、さらに南下し香久山に向かいます。