「日本書紀」の推古天皇20年の記事に、時の摂政聖徳太子に、「又百済人味摩之(みまし)帰化けり。曰く呉(くれ)に学びて、伎楽(くれがく)の舞を得たり」といふ。則ち桜井に安置(はべ)らしめて、少年を集へて、伎楽の舞を習わしむ。是に真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)ふたりの人、習いて、その舞を伝ふ」とあります。
伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇のことで、西域を経て中国に伝わり、その舞は滑稽卑俗なたぐいのものであったようです。この土舞台は江戸時代の「大和名所図絵」にも紹介されていますが、一般にはほとんど知られなくなっていたのを桜井市出身の文芸評論家、保田與重郎が、顕彰すべきと考え、土舞台は日本最初の国立劇場で、聖徳太子は国立演劇研究所をも併設して芸能文化のため尽くされた、という趣意書を執筆し広く紹介しました。
その後、顕彰の機運が高まり昭和47年11月4日、「土舞台」と刻した標石の前で桜井市の後援で特別来賓として朝永振一郎(ノーベル賞受賞の物理学者)夫妻らを迎え、盛大な顕彰式典が挙行され今日に至っています。(注:書記の中で記されている桜井は、この土舞台ではなく飛鳥の豊浦寺の前身の桜井寺の事であるとの説もあります。)
また、この土舞台の北側に小さな空地があり、桜井市教育委員会の案内板には、この付近は、かって安倍山城があった跡で暦応4年(1341年)、南朝方の西阿が籠もる戒重(かいじゅう)城を攻めるため、北朝方の細川顕が陣を構えた山城で、のちの永禄8年(1565)にも松永久秀が布陣したと記載されています。現在、小規模な曲輪の跡が残っていますので土舞台と合わせて見学されるといいでしょう。